まんぷく街道をゆく
2015-05-26T20:52:58+09:00
natsu-daisuki
Where there's a will,there's a way.
Excite Blog
◆まるで天国、三浦半島を巡る旅◆ ワイン飲み比べ
http://fullness.exblog.jp/23153022/
2015-05-29T00:00:00+09:00
2015-05-26T20:52:58+09:00
2015-05-23T23:01:15+09:00
natsu-daisuki
▪️神奈川
ワインの品揃えが豊富なことで有名な宮政商店さん。ワイン好きに知られた名店です。併設のワインセラーみやまさではワインの飲み比べができ、5種類のワインを1500円という破格で味わえるのは酒屋さんだからこそ。遠方からわざわざ訪れるファンも多いとかで、地下には壁を埋め尽くすほどの世界中のワインが貯蔵されています。
まずはきりりと冷えたスパークリングで乾杯。
あとは10種類の選りすぐりのリストの中から好みのワイン4種類を選びます。
私はすべて白、こちらを選びました。
南アフリカ産『ナチュラル・スウィート・ワイン』
ドイツ・ラインヘッセン地方産『インスピレーション・リースリング』
日本・山梨県産『甲州テロワール・セレクション 祝』
フランス・ブルゴーニュ地方産『マコン・ヴィラージュ』
ひとくちにワインといっても並べてみるとこんなに違いがあるのねと、その香りも口当たりもひとつとして同じものはありません。そして、その違いをたとえることが難しすぎる。甘いとか苦いとか、そういう大枠じゃなくってもっと、繊細で柔らかくて消えそうで掴めない違い。ああ、だからソムリエって、「草原を渡る風に吹かれた若草のような」とか「苔むした大木の傍らの木苺のような」とか言うんじゃないかって思います。その若草も木苺もわけがわからないけど、ソムリエだって困ってるんだろうとなんとなくですが理解できました。
この違いを体感しながら、自分の好みをさがす楽しみは飲み比べの醍醐味です。私は甘めの『インスピレーション・リースリング』がお好みです。ここで自分のお気に入りを見つけて、レストランなんかで「ラインヘッセン地方の、ある?」とか言えたらちょっとかっこいい感じしませんか。
っていうか、私、飲めなかった。
ヘロヘロ。]]>
◆まるで天国、三浦半島を巡る旅◆ プライムリブならステーショングリル
http://fullness.exblog.jp/23152832/
2015-05-27T00:00:00+09:00
2015-05-24T02:19:33+09:00
2015-05-23T22:13:31+09:00
natsu-daisuki
▪️神奈川
プライムリブは、ざっくりいえば限りなくレアに近い厚切りのステーキで、柔らかくてジューシー、この味にはまってしまったら、定期的に襲われる食べたい食べたい食べたいという衝動と格闘することとなるでしょう。よく焼きたい人には不向きですが、本当は火なんて入れたくないんだよね、なんていう人ならストライクです。
試しにレアでオーダーしてみたところさすがにレアはNG。それでもレア好きも納得の上出来のミディアムレア。プライムリブの一番の魅力は、その喉ごし。するんと喉を通過する感じがなんとも心地いい。普通のステーキの場合、よく噛んでも飲み込むときは勢いがいると思うのですが、プライムリブの場合、もうちょっと噛もうかというところで油断すると意思に反して喉へいざなわれてしまいます。今回私は嬉しすぎて、3回くらい口の中でそんな粗相をやってしまって、肉の半分以降からは、喉へ逃がすまいと小さく切って口へ運ぶように気をつけました。
ステーショングリルは横須賀中央駅からすぐのところですが、しっとりと落ち着いたなかなかいい雰囲気です。客入りの引いた21時前後が狙い目で、休日でも予約なしでもOKです。ちなみに都内でプライムリブが食べられるのはLawry's The Prime Rib。週末ともなれば予約がなかなか取れません。プライムリブを食べにわざわざ横須賀中央まで交通費を払ってでもくる価値は大アリです。ああ、もう食べたくなっちゃった。]]>
◆まるで天国、三浦半島を巡る旅◆ あのデニーズへ
http://fullness.exblog.jp/23149595/
2015-05-25T00:00:00+09:00
2015-05-24T02:21:58+09:00
2015-05-23T00:00:51+09:00
natsu-daisuki
▪️神奈川
デニーズはやっぱりあのデニーズで、間違いないようでした。ただ、本当に眺めが素晴らしいデニーズ。やっぱりこんなデニーズは知らない。
レギュラーメニューなんですが、ここで食べるとアドリア海を望むイタリアのアマルフィーで食べる最高級のパスタのようです。想像ですが。
この辺りにはマーロウやら音羽の森やら素晴らしいシチュエーションのレストランが点在していますが、あえてファミレス。穴場中の穴場です。
確かに安くておいしい。抜群の安定感。
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◆まるで天国、三浦半島を巡る旅◆ 最高の朝食
http://fullness.exblog.jp/23149563/
2015-05-23T00:00:00+09:00
2015-05-23T00:08:06+09:00
2015-05-22T23:56:43+09:00
natsu-daisuki
▪️神奈川
Kiss in blue heaven連れていってねダーリン♪
ダーリンというのは私の親友の父上。
都心から1時間ちょっとで来られるのにとっても遠くに来たような気分になれる場所、それは魅惑の半島、三浦半島。
疲れ切った私と、ダーリンの娘である私の親友を、ほんの束の間、天国へと連れて行ってくれました。
朝食はなんと海辺の特設テーブル。思わず吹き出してしまいそうな演出ですが、涙が出そうになるくらい感動的。ギターもって愛の歌を歌われるような、なんともこそばい感覚ですが、率直にこういうのって嬉しいものです。
目の前は海。
私をつくる骨とか血とか肉とかがほろほろとほどけていく感じは、ずーっと昔、どこかで感じたことがあった気がする。それは、遠い遠い昔の記憶で、細胞がまだぷちぷちと音を立てて感情に敏感だったあの頃かなって思い出したとき、私はずいぶんと長い間、心の目を閉じていたことに気が付きました。
砂浜をざくざく歩くことが、なぜか心の底から楽しい。
おしえてここはどこ
わたし生きてるの
天国に手が届きそうな
青いヤシの島 ♪
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浜松のうなぎ / うな天
http://fullness.exblog.jp/23052663/
2015-05-06T00:00:00+09:00
2015-05-04T20:29:16+09:00
2015-05-04T19:21:55+09:00
natsu-daisuki
▪️静岡
その由来は、明治時代に初めて人工池でのうなぎの養殖を試みたのが現在の静岡県湖西市であったこと、湖西市と浜松市に跨る浜名湖ではシラスウナギが多く採れたことにあるようです。現在の取扱高は最盛期に比べると1/3程だそうですが、うなぎパイのおかげか、浜松と言えばうなぎ、うなぎと言えば浜松と、うなぎは浜松の不動の代名詞といえるでしょう。そんな浜松には、選ぶのに困るほどのハイレベルなうなぎ専門店が多くあります。
ところで、関東は背開きの蒸し、関西は腹開きの焼き。好みの問題ですが、私はふっくらとした関東風が好きです。蒸すか焼くかの境界線は豊橋付近で、豊橋より東は関東風、豊橋より西は関西風というのが一般的な説だそうで、天竜川がポイントとなりそうです。
浜松市内のうなぎ専門店をリサーチしていて気になったのが、「蒸し」推し。「当店は蒸し焼きです」と蒸し焼きをやけにアピールする店があったりして気になりました。で、気のせいか、口コミなんかを見てみると、蒸し焼きが上品とされている傾向があるようにも感じられました。もしかしたら浜松・豊橋付近では、うなぎ蒸し焼き戦争が長きにわたって繰り広げられているのかもしれません。
うな天は浜松市郊外の住宅街にあるうなぎ専門店です。古民家を移築しての営業で、無駄がなく、清潔感のある空間です。お座敷の個室や程良く仕切られてたテーブル席などプライベートに十分配慮されています。店員さんも過剰な愛想はないけれど最高のサービスは惜しみません、というスタンスで、とっても気持ちが良いです。
それで、うなぎは、というと。。。
うまい、うますぎる!
私がこれまで食べたうなぎのなかでもトップ3に入ります。微妙な泥の匂い、脂ののり具合、厚み、弾力、ご飯とのバランスとタレの甘さ、どれも私の好みにぴったりで、細かく言えば、1位と2位を決めかねているというところです。
特筆すべきは、ここのうなぎは「蒸し」ではなく、それは「焼き」であるということ。
食べている間じゅう、これは蒸し焼きであろうことを疑いませんでした。でものちほど、『蒸らさずに焼くだけという調理方法は良いうなぎを使用しているからこそできる技』というお店の紹介文を見て腰ぬけ。まるで蒸したかのようななめらかな口当たりはなんだったんだろう、と唇のあたりにそっと指を当て甘い回想に耽ります。
白焼きはもっとすごくて、これはホントに白焼きか、と疑ってしまうほどの歯ごたえと弾力。白焼きの次元を超え、別の珍味を食べているかのよう。自分のなかの白焼きの記憶と、咀嚼して伝わる快感が混乱して、ふわふわとして口に中で溶けてしまうのが白焼き、という概念はあっさりと破壊されてしまいました。
もちろん、おいしいうなぎは日本全国にありますが、浜松で食べるうなぎは、やはり格別なものがありました。]]>
足利フラワーパークに行ったことがあります
http://fullness.exblog.jp/23052731/
2015-05-05T00:00:00+09:00
2015-05-04T20:31:41+09:00
2015-05-04T19:50:45+09:00
natsu-daisuki
▪️栃木・群馬・茨城
それが大人になるということなんではないでしょうか。
それで、この季節になると「足利のフラワーパーク行ったことある?」って訊かれることが多くあります。同じような年恰好の、妙齢の女子から。
はい、私は足利フラワーパークに行ったことがあります。
一度は行ってみてもいいかと思います。]]>
【リアル・放浪記、林芙美子になりきって】 好物のうなぎ / 浅草やっ古
http://fullness.exblog.jp/23022184/
2015-04-28T00:00:00+09:00
2015-04-27T20:23:20+09:00
2015-04-27T20:22:27+09:00
natsu-daisuki
▪️林芙美子、リアル放浪記
1951年(昭和26年)6月26日、『主婦の友』の連載記事“私の食べあるき”の取材ため料理屋を訪れ、帰宅後の夜半に苦しみ、翌27日に心臓麻痺で急逝。このときの取材先は銀座の鰯専門店『いわしや』と、深川のうなぎ屋『みやがわ』でした。
帰宅すると家人にお汁粉を作って振る舞ったそうですので、もしその時にお汁粉の味見をしていなければ、彼女が最後に口にしたものは、うなぎということになります。
深川のうなぎ屋『みやがわ』は、明治26年(1893年)創業の築地の老舗『宮川本廛』の前身で、初代が深川で修業したのち築地に開業したそうです。うなぎ養殖は1879年(明治12年)に深川で初めて試みられたということもあり、日本におけるうなぎのルーツをたどれば深川にたどりつくというわけです。
宮川本廛をはじめ、東京には多くのうなぎの専門店が点在しています。なかでも古い歴史を持つ名店が、浅草田原町にある『やっ古』です。創業は今から約200年前。文政7年(1824年)に発行された冊子に「奴鰻」が紹介された記録があるそうです。この頃はまだうなぎの養殖は始められていないので、天然もののうなぎを提供していたということになります。
『やっ古』は、夏目漱石の小説のなかにも登場するほどで、その長い店の歴史の中では、数多くの著名人が訪れたようです。浅草贔屓の林芙美子も、きっと訪れたのではないでしょうか。画像はうな重ランチ2,300円。物足りなくて即、パンケーキを食べに行きました。]]>
【リアル・放浪記、林芙美子になりきって】 まぐろのお刺身が困る
http://fullness.exblog.jp/22964666/
2015-04-18T00:00:00+09:00
2015-04-18T08:19:43+09:00
2015-04-18T00:46:34+09:00
natsu-daisuki
▪️林芙美子、リアル放浪記
林芙美子随筆集収録の『生活』には「食べものは何でもたべるけれどもまぐろのお刺身が困る」とあり、数ある作品のなかで、骨の多い小さな魚への愛情のこもった描写はしばしば登場するのに対して、まぐろに関してはあまりないような気がします。
そんな林芙美子でも、有数の市場で、しかも仲卸業者から直接買い求めたまぐろなら、その本物の味に納得いくことでしょう。
寒風吹きすさぶ1月の、とある週末に尊敬する諸先輩方と訪れた築地市場。お昼時の場外は正月かと見紛うほどの人出で前が見えないくらい。それとは対照的に、一日の仕事を終えて店仕舞いを始めるのが場内です。
場内にある水産物部仲卸業者売場は築地市場のいわば心臓部。弧を描くように約800あまりの店舗が並びます。この独特の形状は、かつて存在した鮮魚貨物列車専用の国鉄東京市場駅の名残で、一両でも多くの車両を引き込むために考えられた商売人の知恵です。
どこを見ても同じような景色で、迷子になったら最後、二度と同じ店にはたどり着けそうにありません。正午を過ぎればとうに活気はなくなりますが、ひと仕事終えた商売人はほっと一息の様子。ターレーにもたれて味噌汁をすする男、携帯片手にしゃがんで一服する男、どの男も頑丈そうで、魚の生臭さがかえって彼らを野性的にみせます。もうたまらんほどの放し飼いEXILE状態。次回はもう少し早起きして親友を連れてこようと思いました。この光景を見ればきっと日頃の疲れが吹っ飛ぶはずです。
ところで生産者や業者から出荷された生鮮食料品は、卸売業者から仲卸業者へ卸売りされます。仲卸業者はそれらを仕分け調製して売買参加者へ販売します。目利きの料理人が仕入れるのが仲卸業者です。その後それら生鮮食料品は、売買参加者によって場外の店に出、街のスーパーマーケット、あるいは食堂やレストランを経て、ようやく私たちのもとににたどりつきます。
愛想のいいおじさんに呼び止められて足を止めると、そこはまぐろ取扱店、双葉さん。
いいのがあるから安くするよ、といわれても塊ひとつは大き過ぎるので、先輩と仲良く半分こ。部位は中トロ、ひとり1,500円で交渉成立。あとで場外のまぐろ専門店のショーケースをのぞいてみると、同じ大きさくらいで8,000円の値札がついていたので、いい買い物ができたと一気にご機嫌になりました。
断面は艶やかで盛りあがるようなハリと弾力。氷を入れてくれるので半日程度の持ち歩きも安心です。
緻密でねっとりとした食感で、甘い。しかも旨い。実は私、まぐろ嫌いなんだよね、なんてことを忘れるくらい。林芙美子もこれを食べていたなら、「困る」なんて言わなかったのではないでしょうか。
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◆母娘フランス放浪記◆ゴッホ終焉の地へ
http://fullness.exblog.jp/22820365/
2015-02-21T00:00:00+09:00
2015-02-20T00:52:28+09:00
2015-02-19T22:57:46+09:00
natsu-daisuki
▪️フランス
パリ中心地から北西25kmほどのところにあるオーヴェル・シュル・オワーズ(Auvers-sur-Oise)という村は、ゴッホゆかりの地として知られています。ピストル自殺をするまでの最後の約3か月を過ごした場所であり、ゴッホの魂が眠る場所です。私は今回が二回目。またここを訪れるとは思ってもいませんでした。
1890年の5月、ゴッホは精神科のガシェ医師の住むこのオーヴェルへやってきました。住まいとなったのは、村のメイン通りに面したラヴー亭(Auberge Ravoux)の屋根裏部屋。ピンクの可愛らしい建物は19世紀半ばの建築物で、ゴッホがいた当時、ここはラヴー家が営む旅館でした。ラヴー家の長女を描いた作品も残っています。同じ年の7月27日、ゴッホは屋外でピストル自殺を図り、歩いてこの旅館まで帰ってきました。そしてその二日後にここで息を引き取りました。
その後ラヴー亭は幾度かのオーナーチェンジを経て、現在はレストランとして営業しています。ゴッホの部屋は当時の姿に復元されており見学可能です。
通りを挟んだラヴー亭の向かいにはゴッホの描いた村役場があります。
ゴッホはこの村での短い時間において、80枚以上の油絵と64枚の素描を残しており、その数からもここがゴッホにとって思い入れ深く特別な場所であったことが伺い知れます。ゴッホが最愛の弟テオに宛てた手紙には、「オーヴェルは実に美しい。特徴があって絵になる本当の田舎だ」と記されています。
また、近くのゴッホの墓を訪れると、兄弟仲良く隣り合わせに眠っていて、彼らのこの地への愛情の深さを実感します。ちなみに弟テオは、ゴッホの死後翌年1891年1月に兄を追うようにして亡くなりました。
彼らの眠る墓地の裏手には広大な麦畑が広がっています。私がここを初めて訪れたのは霧雨煙る薄暗い3月のことで、見通し悪くこれほど遠くまで田畑が繰り広げられてるなんてその時は知りませんでした。訪れるならよく晴れた空気の澄んだ季節がおすすめです。折り重なった緑の層がどこまでも続いています。
オーヴェルで描かれた作品の中で最も有名なのは「オーヴェルの教会」。教科書などでよく目にすることのあるゴッホ代表作のひとつです。13世紀頃に建てられた石造りの教会で、ゴッホが描いたままの姿で今も存在します。
観光案内所、ラヴー亭、村役場、オーヴェルの教会(ノートルダム教会)、ゴッホとテオの墓地、麦畑は駅から徒歩圏内なので気軽な散策におすすめです。村を見渡せる高台に建つのがオーヴェル・シュル・オワーズ城(Château d'Auvers-sur-Oise)。17世紀にイタリアの裕福な銀行家によって建設されました。城内には「印象派時代の旅」と題された展示もあり、ゴッホのみならずこの村にゆかりのあるセザンヌやコローといった多くの画家の歴史にも触れることができます。
■オーヴェル・シュル・オワーズへのアクセス
パリ、サン・ラザール駅(Saint-Lazare)からポントワーズ(Pontoise)で下車、オーヴェル・シュル・オワーズ(Auvers-sur-Oise)方面に乗り換えオーヴェル駅(Gare d'Auvers)下車。あるいはパリ、北駅(Gare du Nord )からヴァルモンドワ駅(Valmondois)で下車、オーヴェル・シュル・オワーズ(Auvers-sur-Oise)方面に乗り換えオーヴェル駅(Gare d'Auvers)下車。いずれもパリから40分程度。
列車本数が少ないのと中継地での待ち時間が長いため時刻表の確認が必要です。予めパリからオーヴェル・シュル・オワーズまでの切符を購入するより、中継地までの切符にしておけば、待ち時間に改札を出られるので構内で退屈な時間を過ごす必要がなくて良いかと思います。私たちはポントワーズ駅でオーヴェル・シュル・オワーズ行きの列車をプラットフォームのベンチで約50分ほど待ちました。持ち合わせは「地球の歩き方」のみ。いい加減、飽きました。
■オーヴェル・シュル・オワーズの主な作品
「人物のいるオーヴェルの村の通りと階段」1890年5月:セントルイス美術館
「オーヴェルの眺め」1890年5月:ゴッホ美術館
「オーヴェルのガシェ医師の庭」1890年5月:オルセー美術館
「医師ガシェの肖像」1890年6月:オルセー美術館
「オーヴェルの教会」1890年6月:オルセー美術館
「わらぶき屋根の家々」1890年6月:オルセー美術館
「2人の子供」1890年6月:オルセー美術館
「アドリーヌ・ラヴーの肖像」1890年6月:クリーブランド美術館
「オーヴェルの城館のある日没の風景」1890年6月:ゴッホ美術館
「荒れ模様の空の麦畑」1890年7月:ゴッホ美術館
「オーヴェル町役場の眺め」1890年7月:個人コレクション
「夜の白い家」1890年6月:エルミタージュ美術館
「カラスのいる麦畑」1890年7月:ゴッホ美術館
「ドービニーの庭」1890年7月:バーゼル市立美術館
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◆母娘フランス放浪記◆なりきり林芙美子 クロズリー・デ・リラ
http://fullness.exblog.jp/22820340/
2015-02-20T00:00:00+09:00
2015-02-20T00:54:47+09:00
2015-02-19T22:49:27+09:00
natsu-daisuki
▪️フランス
「夜コンコルドの広場からサンミッシェルへ出て、リラで茶を飲んで帰る。物静かな夜だ」
『林芙美子 巴里の恋』より
またアメリカの文豪ヘミングウェイのお気に入りのカフェとしても有名で、ここで小説『日はまた昇る』が執筆されました。常連だったヘミングウェイのお気に入りだったシートには、ヘミングウェイのネームプレートが嵌め込まれています。島崎藤村も訪れたことがあるとか。
重厚感のあるシックなインテリアで落ち着いた雰囲気。平日の昼間であっても都心ではこんなに客の少ない日はないというくらい空いていて、贅沢な空間を味わえます。2、3人の若いギャルソンがグラスを磨きながら爽やかに談笑、何を喋ってるんだかはわかりませんが、イケメンを間近で見ているだけで疲れが吹っ飛びます。母はパリで見る人見る人、「日本なら簡単にモデルになれるね」を連発、ここのギャルソンたちも今すぐにでも芸能事務所へ連れていきたいくらいのイケメン揃いでした。せっかくですから「トイレはどこですか」とか聞いて無駄にメンズとの接触をはかりましょう。コーヒー一杯4ユーロ。
林芙美子が訪れた頃のモンパルナスは、モンマルトルの丘から下りてきた芸術家たちで賑わいをみせ、いわば文化の中心でした。彼らは毎日のように会えば議論を交わし刺激しあいながら感性を磨き、そこから多くの絵画や文学が誕生しました。その生みの場所となったのがまさにカフェでした。
モンパルナス界隈のカフェ
それまで芸術家の拠点といえばモンマルトルの丘であったが、より物価の安い地域へと移り住んだ先がモンパルナス。学生も多く、何時間も居座れて金がなくとも絵を一枚描けば一杯のコーヒーが飲めるカフェも少なくなかったようです。1920年代、藤田嗣治、藤田嗣治、モディリアーニ、ピカソなどエコール・ド・パリの画家たちが集いました。
※クロズリー・デ・リラ(La Closerie des Lilas):創業1847年
※ル・ドーム・モンパルナス(Le Dome Montparnasse):1897年創業
※ラ・ロトンド(La Rotonde):1903年創業
※ル・セレクト(Le Select):1923年創業
小説『日はまた昇る』で主人公ジェイクの行きつけのカフェとして登場。
※ラ・クーポール(La Coupole):1927年創業
当時パリで一番大きなカフェとしてオープン。
1929年の大恐慌をきっかけに狂乱の時代は幕を閉じ、それと同時にモンパルナス繁栄も衰退していきます。モンパルナスに代わって芸術家の中心地となったのが、知的で洗練された雰囲気を放つサン・ジェルマン・デ・プレ。カフェ・ドゥ・マゴ(Aux Deux Magots)とカフェ・ド・フロール(Cafe de Flore)はパリで最も有名なカフェで観光客に人気です。
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◆母娘フランス放浪記◆ヴェルサイユ宮殿
http://fullness.exblog.jp/22812580/
2015-02-17T00:00:00+09:00
2015-02-16T21:39:24+09:00
2015-02-16T21:29:25+09:00
natsu-daisuki
▪️フランス
パリの南西約20kmに位置するヴェルサイユ宮殿。東京から菊名くらいでしょうか。電車なら約30分から40分で到着します。最寄駅から正門まで約15分ほど歩くことになりますが、通り沿いには小さな教会や商店が立ち並び、パリとは少し違った生活感のあるヴェルサイユの街の雰囲気を味わえます。
ヴェルサイユ宮殿へはパリからのバスツアーが多くありますが、そのほとんどが手前の宮殿を見学するのみの半日ツアーです。宮殿だけのためにヴェルサイユ宮殿を訪れる必要ははっきり言ってないかと思います。ヴェルサイユ宮殿は宮殿と広大な庭園そして離宮を見て初めて、その全体像がかすかに浮かび上がるのです。
敷地面積は約1,000ヘクタールで、調べてみるとこれは東京都中央区とほぼ同じです。その広大さは、宮殿から十字形の運河(グランカナル)を見渡して遠近感がつかめなくなるほどです。
私たちの場合、9時の開館と同時に入場し、もうちょっと見たいという気持ちを残したまま、閉館の17時半ぎりぎりまで時間がかかりました。本当のことをいうと、午後一には帰れると思ってたんですが、ナメてました。
フランス王ルイ13世の別邸宅を、息子のルイ14世が宮殿に改装したのがヴェルサイユ宮殿です。歴代のフランス王はパリのルーヴル宮殿を王宮としていましたが、ルイ14世は自身の王宮にヴェルサイユ宮殿を選んだことにより、宮廷および政府はパリからヴェルサイユに移されました。以降、ヴェルサイユ宮殿が政治の中心地となりました。
絶対君主制のもと、王宮中心の絢爛豪華な生活は1682年から約100年間続きます。そんな放蕩政治に対して不満を募らせた一般市民との対立が1789年のフランス革命です。裁判によりこのときギロチンにかけられたのがルイ16世、そして王妃のマリー・アントワネットです。ルイ16世が38歳、マリー・アントワネットが37歳のことでした。
短い生涯にもかかわらず、後世に遺るマリー・アントワネット強烈なインパクトは、彼女そのものが放つ魅力の仕業。資料によるとマリー・アントワネットの身長は154センチで、ウエストは58センチ、バストが109センチと小柄のナイスバディ。また彼女の寝室や愛用品はどれもこれもキュートで女子力の高さがうかがえます。
14歳でオーストリアから嫁いできたマリー・アントワネットはフランス王宮のしきたりになじめず孤立していたといいます。そんな彼女の心を癒したのが離宮です。離宮は宮殿とは別に大小ふたつあり、ルイ14世のプライベートな別邸として建てられた大離宮(グラン・トリアノン)は、フランス革命後はナポレオン一世が居住しています。
王妃となったマリー・アントワネットに贈られた小離宮(プチ・トリアノン)は他のどの建造物と比べても小さく小ぢんまりとまとまっています。
近くにはどこか懐かしさを感じる王妃の農村(アモー)があり、ここが宮殿の一部であることを忘れてしまうほど完璧な農村風景に出会えます。当時、王妃自身も側近たちと一緒になって土いじりをしていたようです。この小離宮こそマリー・アントワネットの生き方そのもので、リアリティに満ちた人間らしさを感じることができます。
広大な園内の移動手段としては、ミニ列車(プチ・トラン)がおすすめです。宮殿から出発して運河のほとりを経由し、離宮までを巡回します。 ゴーカートのようなミニカーやセグウェイもあります。宮殿から離宮までは園内をゆっくり歩いて1時間ちょっとですが、わたしたちのように、いつの間にか歩き出していてもう後に引けなくなる前に、さっさとミニ列車に乗ってしまうことです。
離宮にたどり着いたときには餓死寸前。園内にレストランは数件(どこも遠い)あるけれど引き返すほどの気力はなし。どこからともなく漂う香ばしい匂いに救われました。
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◆母娘フランス放浪記◆なりきり林芙美子 1931年のパリ
http://fullness.exblog.jp/22794525/
2015-02-12T00:00:00+09:00
2015-02-09T21:55:48+09:00
2015-02-09T21:22:05+09:00
natsu-daisuki
▪️フランス
当時、欧亜連絡という鉄道輸送ルートがあり、日本から外国行きの切符が売り出されていました。林芙美子はその切符を利用して、東京から下関まで行き、関釜連絡で釜山に渡り、京城(現在のソウル)、平壌、奉天(現在の瀋陽)、ハルビン、満州里、シベリア鉄道を経由してモスクワ入りし、東欧、ドイツを経てパリに入りました。切符代は東京からベルリンまで450円前後、現在の100万円に相当します。
所要時間は2週間~3週間程度。船移動の倍以上はかかったようで、11月4日に出発した林芙美子もパリに到着したのは20日後の11月23日でした。
林芙美子が訪れた当時のパリの様子はというと、狂騒はすでに過ぎ去り、景気悪化も否めない。パリに集まったかつての若者も潮時を迎え自国へと引き上げようとしている頃でした。はっきり言って今ごろフランスなんてダサいし、ちょっとカッコ悪いかもね、というタイミングなのにも関わらず ただただ「行きたい」という信念(※諸説あり)が彼女をフランスへと導いたようです。
大まかな時代背景は以下の通りです。
■19世紀末~1914年
「ベル・エポック(良き時代)」と呼ばれるパリの栄華期。産業革命の好景気は続き1900年に第5回パリ万国博覧会が開催される。画家や文人などの芸術家がモンマルトル周辺にアトリエや住居を持つようになる。
※1894年:マッサン誕生
※1903年:林芙美子誕生
※1913年:藤田嗣治渡仏
■1914年~1918年
第一次世界大戦勃発。
■1919年~1929年
「レ・ザネ・フォル(狂乱の時代)」と呼ばれる平和で豊かな活発期。女性解放の風潮がみられ自由でモダンなスタイルがパリの定番となる。芸術家たちがモンマルトルからモンパルナスへ移り住むようになる。
※1920年:マッサン、エリーと結婚し日本へ帰国。
※1922年:藤田嗣治の『寝室の裸婦キキ』が話題となる。
※1924年:山崎蒸溜所竣工。
■1929年以降
世界恐慌。フランスではその影響を1931年まで逃れる事に成功したがそれ以降はフランス経済は明確に下降。
※1931年:林芙美子パリへ。
※1935年:マッサン、北海道で林檎ジュースの出荷を開始。
※1940年:余市で製造した最初のウイスキー、『ニッカウヰスキー』の誕生。
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◆母娘フランス放浪記◆豚足を食べた気になった
http://fullness.exblog.jp/22794501/
2015-02-11T00:00:00+09:00
2015-02-09T21:52:39+09:00
2015-02-09T21:14:16+09:00
natsu-daisuki
▪️フランス
訪れたのはお昼ちょっと過ぎくらい。ピーク時は待つこともあるそうなのでご注意を、というまでもなく、ここは年中無休の24時間営業をパリで初めてはじめたレストラン。混んでたら、また後でどうぞ、開いてますので。
エスカルゴ、タルタル、サーモン、オイスター、ここに来れば定番のフランス料理が朝昼晩いつでも食べられます。オニオングラタンスープも人気の一皿です。
名物料理は大きめの平皿にどかんど載ったダイナミックな豚足のグリル。日本語のメニューもあってオーダーは心配なし。“名物豚足料理”を指さしながら「サ スィル ヴ プレ(これください)」。豚足といえばボイルの白くてプニプニしたのしか知らないので余計に興味をそそられます。
数分後、やってきたのがこちら↓
オマエは豚足なのか?
中には内臓のような肉片が詰まっていて、これってまさかの腸詰?グリルとかされてないんですけど。正直言ってこの時点では、これがお目当ての豚足のグリルではないことに気が付いていませんでした。
豚足のグリルを見たことがなかったのが致命傷でした。どうやら指さしたメニューが間違っていたようです。「豚足って臭いね」って言いながら笑顔なく食べていた母娘ふたりを思うと、今ごろ胸が痛みます。のちに、これは直感通り豚足を模した腸詰であることが判明しました。
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◆母娘フランス放浪記◆美術館巡り パリ市立近代美術館
http://fullness.exblog.jp/22794469/
2015-02-10T00:00:00+09:00
2015-02-09T21:30:03+09:00
2015-02-09T21:03:26+09:00
natsu-daisuki
▪️フランス
藤田嗣治がパリに渡ったのは1913年、27歳の時です。居を構えたモンパルナス界隈は家賃が安く多くの画家が住んでいました。隣の部屋にはモディリアーニがおり、その後ピカソやパスキン、ルソーなどとも知り合います。なかでもピカソとは生涯にわたって交友があったようです。
翌年から第一次世界大戦が始まり生活は貧窮しつつも、数年経つとぽつぽつと絵が売れ始めるようになりますがまだまだ一介の絵描きにすぎません。彼を一躍有名にしたのは、1922年、36歳のときに描いた『寝室の裸婦キキ』でした。キキは実在したアメリカ人写真家マン・レイの愛人で、多くの画家たちのモデルともなりモンパルナスの女王と呼ばれた女性です。
日本画のような繊細な筆遣いと独特の乳白色。その乳白色は、実際に目にしてみると、透明感と存在感に錯乱し目が離せなくなるくらい引き込まれてしまいます。両サイドのカーテンにも細かな装飾が描かれています。
乳白色はどのように作られた色であるのか、藤田自身の口から終生語られることはありませんでしたが、近年の修復作業でその謎が判明しています。独特の乳白色の正体は、下地に硫酸バリウム、炭酸カルシウムと鉛白を合わせて作った自家製絵具によるもので、ほのかに黄色を帯びた上から和光堂のシッカロールをはたいています。
『寝室の裸婦キキ』が展示されているのはパリ市立近代美術館。びっくりするのが、入館無料!こんな世界的名画を、タダで見れちゃうなんて。しかもひっそり地味路線なので人もまばら。『寝室の裸婦キキ』の他にもモディリアーニの『青い目の女』、シャガールの『夢』、マティスの『ダンス』などなど名画を思う存分堪能できます。
美術館の前のプレジダン・ウィルソン通りでは、毎週水曜日と土曜日にマルシェが開かれていて、地下鉄イエナ駅から隣駅アルマ・マルソー駅までの間に規則正しく店舗が並びます。
パリに90以上あるといわれているマルシェのなかでも品質が高いことで知られており、有名シェフ御用達だとか。本物志向の人におすすめです。
パリ市立近代美術館|Musée d'art moderne de la Ville de Paris
■閉館日:月曜日
■開館時間:10:00~18:00(金、土は22:00まで)
■料金:無料]]>
◆母娘フランス放浪記◆美術館巡り オランジュリー美術館
http://fullness.exblog.jp/22786675/
2015-02-09T00:00:00+09:00
2015-02-07T10:58:11+09:00
2015-02-06T20:46:49+09:00
natsu-daisuki
▪️フランス
印象派とポスト印象派の作品が収められていて、セザンヌ、マティス、モディリアーニ、モネ、ピカソ、ルノワール、ルソーなどなど、至高の名画に出会えます。いうなれば、同じ趣向のオルセー美術館のスピンオフ版。ふたつの美術館を観覧できるお得なペア券も販売されています。
オランジュリー美術館を擁するチュイルリー公園はパリ市内にある最古の庭園です。17世紀に造園師アンドレ・ル・ノートルが、もともとあった庭園に手を加え典型的なフランス式庭園として蘇らせたのがこの公園の始まりです。アンドレ・ル・ノートルは造園の名手として知られており、ヴェルサイユ宮殿の庭園の設計も彼によるものです。また、「オランジュリー」とは「オレンジ」のことで、宮殿のオレンジ栽培の温室にちなんでいます。
美術館の目玉はなんといってもクロード・モネの描いた『睡蓮』が有名です。壁一面の睡蓮は美しく迫力があります。モネはこの睡蓮を自身の単なる作品と捉えるのでなく、見る人に力を与える作品であることを願っていたといいます。実際にモネがジヴェルニーの睡蓮に心を癒されたように、日常に疲れた人々が睡蓮の美しさで気力を取り戻してほしいと願ったのです。モネは作品を描いたのではなく、空間に泉を作り睡蓮を浮かべたのです。
モネは1926年に86歳で亡くなるまでの6年間、最期の最期までこの作品に筆を入れていたそうです。翌年、温室だった建物を、この『睡蓮』を収めるために美術館として大改修。自然光にこだわった建築で、空模様で表情が変わるその水面はまるで本物の泉のようです。
オランジュリー美術館|Musée de l’Orangerie
■閉館日:火曜日
■開館時間:9時~18時
■料金:9ユーロ
※オランジュリーとオルセー美術館のペア券: 16ユーロ(4日間有効)
※毎月第一日曜日は無料
■主な作品:ルノワール『風景の中の裸婦』(1883年)、セザンヌ『セザンヌ夫人の肖像』(1890年)、ルソー『人形を抱く子ども』(1904年)、モディリアーニ『ポール・ギョームの肖像』(1916年)、ピカソ『水浴の女』(1921年)、モネ『睡蓮』(1926年)]]>
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