2010年 05月 12日
【リアル・放浪記、林芙美子になりきって】 桐生の見どころ食べどころ |
初めての土地を歩くとき、私が一番最初にすることは、観光案内所に行って “見どころ”と“食べどころ”を尋ねることだ。
地図で現在地を指差しながら、係りの人に、ここから1時間で歩ける範囲はどこまでかを教えてもらって、その限界地点から現在地点をなんとなく円で結ぶ。丸く描いた円の内側が、本日の日没までの行動範囲となる。
群馬県桐生市。
桐生駅はJR両毛線のちょうど真ん中くらいに位置します。
JR大宮駅を時計の中心と考えたときに10時の針が高崎線の高崎駅、2時の針が宇都宮線の小山駅。
この両駅を東西に結んでいるのが両毛線です。
両毛とは、上毛野国(上野国、現在の群馬県)と下毛野国(下野国、現在の栃木県)の両方に跨がる地域という意味で、毛の由来は馬であるだとか、二毛作からとっただとかいろいろ言われているようですが詳しくはわかりません。
桐生は「桐生は日本の機どころ」とうたわれるほど絹織物で有名です。
「西の西陣、東の桐生」と称されるほど、その技術も品質も折り紙つき。
桐生での織物の起こりは奈良時代と古く、江戸時代に入ると養蚕、絹織物の生産と交易のための町として徳川家康氏直轄地となりました。
桐生天満宮へとのびるメインストリート、本町通りには、かつての栄華の面影を偲ばせる蔵造の街並みが残ります。桐生で終焉を迎えた坂口安吾の「坂口安吾千日往還の碑」はちょうどこの通りの中ほど。
道路に面した両肩の建物は、正面に天満宮を据えたときに末広がりに見えるようにやや斜めに配されています。これは目に映える視覚効果を狙ったもので、鎌倉の若宮大路にも採用されています。
駅から2キロ弱、寄り道をしながらのんびり歩いて1時間、本日の限界地点は、国登録有形文化財に指定されている群馬大学工学部同窓記念会館。
桐生高等染織学校として大正5年(1916年)に建てられた古い洋風建築物です。
明治時代以降、絹織物は最盛期を迎え近代化を遂げます。
明治22年(1889年)、日本織物株式会社は洋式織機を導入して絹織物の一貫生産を始ました。日本におけるマニュファクチュアの始まりです。
工場制手工業の象徴的なものが「のこぎり屋根」の建物。
のこぎり屋根は北側の天窓からの優しい光が手作業の光加減に適していて、織機の音を拡散できることから、桐生では織物工場として明治時代から昭和初期に数多く建設されました。現在でも古い工場がいくつか残っています。
明治20(1887年)年創業の藤屋は、この地が近代化に踏み出したまさにその頃からあるうどんの名店。桐生は実はうどんどころ。桐生名物『ひも川』という珍品に出会えます。
『ひも川』とは平べったいうどんのことで、幅が2センチほどもあります。
その形状からキシメンだとかホウトウだとかに似ているといわれますが、食べれば一発でその違いが明らか。キシメンだとかホウトウだとかとは出が違う、品位が違う、人間性が違う。(うどん性か。)
ぷるりとした食感で、透き通るほど薄いのにコシがある、こんなマーベラスなうどんははじめてです。
稲庭うどんの束を集めて薄く延ばし、讃岐うどんのコシを加えた感じ。要するにいいとこドリのうどんってわけです。
うどんは、林芙美子の大好物。
文章のいたるところに、うどんが登場します。
それが物語のテーマを司る重要な場面だったりするから笑えます。
『 「村井さんは何がお好きですか?」
と訊いてみた。
「何ですか? 食べるものなら、僕は何でも食べます」
「さうですか、でも、一番、お好きなものは何ですの?」
「さア、一番好きなもの‥‥僕はうどんが好きだな‥‥」
絹子は、
「まア」
と云つてくすくす笑つた。
自分もうどんは大好きだつたし、二宮の家にゐた頃は、お嬢さまもうどんが好きで、
絹子がほとんど毎日のやうにうどんを薄味で煮たものであつた。 』 (『幸福の彼方』より)
地図で現在地を指差しながら、係りの人に、ここから1時間で歩ける範囲はどこまでかを教えてもらって、その限界地点から現在地点をなんとなく円で結ぶ。丸く描いた円の内側が、本日の日没までの行動範囲となる。
群馬県桐生市。
桐生駅はJR両毛線のちょうど真ん中くらいに位置します。
JR大宮駅を時計の中心と考えたときに10時の針が高崎線の高崎駅、2時の針が宇都宮線の小山駅。
この両駅を東西に結んでいるのが両毛線です。
両毛とは、上毛野国(上野国、現在の群馬県)と下毛野国(下野国、現在の栃木県)の両方に跨がる地域という意味で、毛の由来は馬であるだとか、二毛作からとっただとかいろいろ言われているようですが詳しくはわかりません。
桐生は「桐生は日本の機どころ」とうたわれるほど絹織物で有名です。
「西の西陣、東の桐生」と称されるほど、その技術も品質も折り紙つき。
桐生での織物の起こりは奈良時代と古く、江戸時代に入ると養蚕、絹織物の生産と交易のための町として徳川家康氏直轄地となりました。
桐生天満宮へとのびるメインストリート、本町通りには、かつての栄華の面影を偲ばせる蔵造の街並みが残ります。桐生で終焉を迎えた坂口安吾の「坂口安吾千日往還の碑」はちょうどこの通りの中ほど。
道路に面した両肩の建物は、正面に天満宮を据えたときに末広がりに見えるようにやや斜めに配されています。これは目に映える視覚効果を狙ったもので、鎌倉の若宮大路にも採用されています。
駅から2キロ弱、寄り道をしながらのんびり歩いて1時間、本日の限界地点は、国登録有形文化財に指定されている群馬大学工学部同窓記念会館。
桐生高等染織学校として大正5年(1916年)に建てられた古い洋風建築物です。
明治時代以降、絹織物は最盛期を迎え近代化を遂げます。
明治22年(1889年)、日本織物株式会社は洋式織機を導入して絹織物の一貫生産を始ました。日本におけるマニュファクチュアの始まりです。
工場制手工業の象徴的なものが「のこぎり屋根」の建物。
のこぎり屋根は北側の天窓からの優しい光が手作業の光加減に適していて、織機の音を拡散できることから、桐生では織物工場として明治時代から昭和初期に数多く建設されました。現在でも古い工場がいくつか残っています。
明治20(1887年)年創業の藤屋は、この地が近代化に踏み出したまさにその頃からあるうどんの名店。桐生は実はうどんどころ。桐生名物『ひも川』という珍品に出会えます。
『ひも川』とは平べったいうどんのことで、幅が2センチほどもあります。
その形状からキシメンだとかホウトウだとかに似ているといわれますが、食べれば一発でその違いが明らか。キシメンだとかホウトウだとかとは出が違う、品位が違う、人間性が違う。(うどん性か。)
ぷるりとした食感で、透き通るほど薄いのにコシがある、こんなマーベラスなうどんははじめてです。
稲庭うどんの束を集めて薄く延ばし、讃岐うどんのコシを加えた感じ。要するにいいとこドリのうどんってわけです。
うどんは、林芙美子の大好物。
文章のいたるところに、うどんが登場します。
それが物語のテーマを司る重要な場面だったりするから笑えます。
『 「村井さんは何がお好きですか?」
と訊いてみた。
「何ですか? 食べるものなら、僕は何でも食べます」
「さうですか、でも、一番、お好きなものは何ですの?」
「さア、一番好きなもの‥‥僕はうどんが好きだな‥‥」
絹子は、
「まア」
と云つてくすくす笑つた。
自分もうどんは大好きだつたし、二宮の家にゐた頃は、お嬢さまもうどんが好きで、
絹子がほとんど毎日のやうにうどんを薄味で煮たものであつた。 』 (『幸福の彼方』より)
by natsu-daisuki
| 2010-05-12 00:00
| ▪️林芙美子、リアル放浪記