2010年 05月 11日
【リアル・放浪記、林芙美子になりきって】 茂田井武と林芙美子と私 |
童画家で有名な茂田井武。
その名を知らずとも、どこかで茂田井武の絵に出会ったことが誰しもあるはず。
宮沢賢治の童話『セロ弾きのゴーシュ』の絵本化に際し、絵を描いたのがこの人。
思わず微笑んでしまうような、味のある絵をたくさん残しています。私の好きな絵描きのひとりです。
明治41年(1908年)、東京生まれの茂田井武は太平洋画会研究所、川端画学校に学び、昭和5年(1930年)22歳のときパリへ渡欧。特に絵の勉強というわけではなく、ふらりと旅立ったそうです。
偶然にも翌年、林芙美子もパリへ。
茂田井武『じぷしい絵日記』(山口卓三/編)のあとがきには、
「パリのセルクル・ジャポネで皿洗い兼ボーイをしていた茂田井武は、林芙美子にワインを注いだ」
とあります。
私の好きな作家・林芙美子と、私の好きな絵描き・茂田井武が実は接触していたという事実。フミコすごい。
そしてもっとすごいのは、わ・た・し。
先日、茂田井武の娘さんとお会いする機会をいただきました。
茂田井武という人を詳しく調べてみると、見覚えのある名前が出てきたのです。
母方の親戚。絵描きであり文筆家であり仙人。
聞けば、親戚のおじさんは若い頃、茂田井家に居候しながら茂田井武研究に没頭していたようです。
残念ながらおじさんは他界しましたが、私に大いなる遺産を残してくれたようでこの不思議なつながりに感謝したい気持ちです。
現在、群馬県桐生市の大川美術館にて、茂田井武「ton paris」展、開催中です。
茂田井武と林芙美子が出会ったパリの街並みやそこに住む人々の生活が、茂田井武のやさしいタッチで生き生きと描かれています。
写真よりもまっすぐに訴えかけるのは、それらの絵が、茂田井武という人の目に鮮明に焼きついた、感情を揺るがす記憶そのものだからだと思います。
印象のレンズ 茂田井武
「 私の描きたい絵は印象のレンズを通して焼きつけられた、脳中の印画というべきもので、
記憶にひっかかって抜けないもの、過去の印象の鮮やかなものたちである。
幼少時に描きためられた絵は大震災で、ヨーロッパや中国で描いた画帳やスケッチは
戦災で焼失したが、私の脳中の印画は年とともに濃度を増して、思い出の映像は
「その時そのままの不死の姿」に近いものになってきた。 」 (『教育美術』1952年5月号より)
その名を知らずとも、どこかで茂田井武の絵に出会ったことが誰しもあるはず。
宮沢賢治の童話『セロ弾きのゴーシュ』の絵本化に際し、絵を描いたのがこの人。
思わず微笑んでしまうような、味のある絵をたくさん残しています。私の好きな絵描きのひとりです。
明治41年(1908年)、東京生まれの茂田井武は太平洋画会研究所、川端画学校に学び、昭和5年(1930年)22歳のときパリへ渡欧。特に絵の勉強というわけではなく、ふらりと旅立ったそうです。
偶然にも翌年、林芙美子もパリへ。
茂田井武『じぷしい絵日記』(山口卓三/編)のあとがきには、
「パリのセルクル・ジャポネで皿洗い兼ボーイをしていた茂田井武は、林芙美子にワインを注いだ」
とあります。
私の好きな作家・林芙美子と、私の好きな絵描き・茂田井武が実は接触していたという事実。フミコすごい。
そしてもっとすごいのは、わ・た・し。
先日、茂田井武の娘さんとお会いする機会をいただきました。
茂田井武という人を詳しく調べてみると、見覚えのある名前が出てきたのです。
母方の親戚。絵描きであり文筆家であり仙人。
聞けば、親戚のおじさんは若い頃、茂田井家に居候しながら茂田井武研究に没頭していたようです。
残念ながらおじさんは他界しましたが、私に大いなる遺産を残してくれたようでこの不思議なつながりに感謝したい気持ちです。
現在、群馬県桐生市の大川美術館にて、茂田井武「ton paris」展、開催中です。
茂田井武と林芙美子が出会ったパリの街並みやそこに住む人々の生活が、茂田井武のやさしいタッチで生き生きと描かれています。
写真よりもまっすぐに訴えかけるのは、それらの絵が、茂田井武という人の目に鮮明に焼きついた、感情を揺るがす記憶そのものだからだと思います。
印象のレンズ 茂田井武
「 私の描きたい絵は印象のレンズを通して焼きつけられた、脳中の印画というべきもので、
記憶にひっかかって抜けないもの、過去の印象の鮮やかなものたちである。
幼少時に描きためられた絵は大震災で、ヨーロッパや中国で描いた画帳やスケッチは
戦災で焼失したが、私の脳中の印画は年とともに濃度を増して、思い出の映像は
「その時そのままの不死の姿」に近いものになってきた。 」 (『教育美術』1952年5月号より)
by natsu-daisuki
| 2010-05-11 00:00
| ▪️林芙美子、リアル放浪記