2009年 07月 02日
【リアル・放浪記、林芙美子になりきって】 林芙美子記念館、建物内部特別公開 |
林芙美子が亡くなるまで暮らしていた住居は、新宿区の管理のもと林芙美子記念館として公開されています。
6月下旬の2日間、林芙美子の命日にちなんで、普段は立ち入ることのできない建物内部を特別公開。
ボランティアガイドによる林芙美子その人と、日本名建築としても名高いこの建物の説明を詳しく聞ける絶好のチャンス。
厳選なる抽選の結果、見事当選!
胸元に黄色いリボンをつけて、おじゃましまーす!
昭和14年(1939年)、林芙美子が36歳のときこの土地を手に入れ、新築工事に取り掛かりました。
戦時中の建坪の制限は一人につき30.25坪。
林芙美子名義の土地と夫・禄敏名義の土地を合わせて約100坪にした敷地のなかに、ふたつの棟がつなぎ合わさった設計になっています。
その中央に間を割るように生えるザクロの樹。
林芙美子がこの家で最も愛したのはこのザクロの樹。
当時この土地、建築費用は15万で、それは今の価格でいうと3億円。木賃宿暮らしの放浪記時代の貧しさが嘘のようです。
貧しい暮らしの中でも、常に美しいものに強く惹きつけられていた林芙美子を象徴するような、きらりと光る本物のセンスのよさみたいなものをこの建物の細部にいくつも見つけることができます。
林芙美子自身、建築の本を読み漁り、勉強をしてこの設計から着工までかかわりました。
庭に植えられていたかつては300本を越える孟宗竹は自ら練馬まで足を運んで見、家屋の丸太は木場まで行って選んできたそうです。
庭に無造作に祀られている道祖神は、この辺りを通りかかる行商の左官屋さんの苦労に同情して置いていかせたもので、林芙美子が亡くなった後も、夫・禄敏がひとつずつ増やしていったものです。
また外壁は漆喰と酸化鉄を混ぜた塗り壁で、夕日に照らされると黄金に輝き、その手間は一流の大工さんでも相当の苦労を要したそうです。
玄関先の石畳は、林芙美子自身、ひとつひとつ丁寧に石をはめ込んでお手伝いをしたそうです。
玄関を入ってすぐ右、北側の部屋は客間です。
原稿を取りに来た記者たちが入れ替わり立ち替わりやってきたそうです。
玄関の左側は小間で、母・キクの部屋として使われました。
広めにとられた廊下の脇にあるのが風呂場、台所、書庫、使用人部屋。
料理が好きだった林芙美子の使い勝手のよさそうな台所と、使用人部屋の2段ベッドはシベリア鉄道の寝台車をイメージしたそうです。
朝ご飯は毎日欠かさず自分で作り、夫・禄敏、息子・泰、母・きくと家族そろって茶の間で食べました。
次の間にある存在感のあるインド布が張られた置押入れ。林芙美子はこの柄が大変気に入っていたそうです。
この姿見で着物の着付けをしました。
次の間の奥の寝室に置かれた卓袱屋は、作家・吉屋信子の鎌倉の旧宅にあるものと同じです。
初めはこの寝室が書斎として使われていましたが、明るすぎるという理由から隣の部屋が書斎となりました。
そしてこれが書斎。
ここで『浮雲』、『放浪記第3部』、『めし』などの名作が生まれました。
また、ここで、林芙美子は最期を迎えました。
この書斎をとても愛していた林芙美子。
後ろを振り返ると、そこは小さな石庭になっていて、小堀遠州の茶室、京都大徳寺孤篷庵をイメージして作ったそうです。
アトリエには林芙美子の残した数々の名品が展示されています。
庭にある石蔵は以前は倉庫として使われていましたが、今はちょっとしたギャラリー風になっています。
緑の生い茂る裏山にはアジサイが咲き誇り、濃密な土の匂いが辺りを覆います。
作家・壺井栄が『二十四の瞳』の取材で訪れた小豆島。
林芙美子に贈られた小さな苗木。
小豆島のオリーブは、今もまだ、大きく生きています。
6月下旬の2日間、林芙美子の命日にちなんで、普段は立ち入ることのできない建物内部を特別公開。
ボランティアガイドによる林芙美子その人と、日本名建築としても名高いこの建物の説明を詳しく聞ける絶好のチャンス。
厳選なる抽選の結果、見事当選!
胸元に黄色いリボンをつけて、おじゃましまーす!
昭和14年(1939年)、林芙美子が36歳のときこの土地を手に入れ、新築工事に取り掛かりました。
戦時中の建坪の制限は一人につき30.25坪。
林芙美子名義の土地と夫・禄敏名義の土地を合わせて約100坪にした敷地のなかに、ふたつの棟がつなぎ合わさった設計になっています。
その中央に間を割るように生えるザクロの樹。
林芙美子がこの家で最も愛したのはこのザクロの樹。
当時この土地、建築費用は15万で、それは今の価格でいうと3億円。木賃宿暮らしの放浪記時代の貧しさが嘘のようです。
貧しい暮らしの中でも、常に美しいものに強く惹きつけられていた林芙美子を象徴するような、きらりと光る本物のセンスのよさみたいなものをこの建物の細部にいくつも見つけることができます。
林芙美子自身、建築の本を読み漁り、勉強をしてこの設計から着工までかかわりました。
庭に植えられていたかつては300本を越える孟宗竹は自ら練馬まで足を運んで見、家屋の丸太は木場まで行って選んできたそうです。
庭に無造作に祀られている道祖神は、この辺りを通りかかる行商の左官屋さんの苦労に同情して置いていかせたもので、林芙美子が亡くなった後も、夫・禄敏がひとつずつ増やしていったものです。
また外壁は漆喰と酸化鉄を混ぜた塗り壁で、夕日に照らされると黄金に輝き、その手間は一流の大工さんでも相当の苦労を要したそうです。
玄関先の石畳は、林芙美子自身、ひとつひとつ丁寧に石をはめ込んでお手伝いをしたそうです。
玄関を入ってすぐ右、北側の部屋は客間です。
原稿を取りに来た記者たちが入れ替わり立ち替わりやってきたそうです。
玄関の左側は小間で、母・キクの部屋として使われました。
広めにとられた廊下の脇にあるのが風呂場、台所、書庫、使用人部屋。
料理が好きだった林芙美子の使い勝手のよさそうな台所と、使用人部屋の2段ベッドはシベリア鉄道の寝台車をイメージしたそうです。
朝ご飯は毎日欠かさず自分で作り、夫・禄敏、息子・泰、母・きくと家族そろって茶の間で食べました。
次の間にある存在感のあるインド布が張られた置押入れ。林芙美子はこの柄が大変気に入っていたそうです。
この姿見で着物の着付けをしました。
次の間の奥の寝室に置かれた卓袱屋は、作家・吉屋信子の鎌倉の旧宅にあるものと同じです。
初めはこの寝室が書斎として使われていましたが、明るすぎるという理由から隣の部屋が書斎となりました。
そしてこれが書斎。
ここで『浮雲』、『放浪記第3部』、『めし』などの名作が生まれました。
また、ここで、林芙美子は最期を迎えました。
この書斎をとても愛していた林芙美子。
後ろを振り返ると、そこは小さな石庭になっていて、小堀遠州の茶室、京都大徳寺孤篷庵をイメージして作ったそうです。
アトリエには林芙美子の残した数々の名品が展示されています。
庭にある石蔵は以前は倉庫として使われていましたが、今はちょっとしたギャラリー風になっています。
緑の生い茂る裏山にはアジサイが咲き誇り、濃密な土の匂いが辺りを覆います。
作家・壺井栄が『二十四の瞳』の取材で訪れた小豆島。
林芙美子に贈られた小さな苗木。
小豆島のオリーブは、今もまだ、大きく生きています。
by natsu-daisuki
| 2009-07-02 00:53
| ▪️林芙美子、リアル放浪記