2009年 06月 24日
【リアル・放浪記、林芙美子になりきって】 日影茶屋をめぐる物語。日影茶屋事件と日影大福ほか諸々 |
江戸時代中期創業の料理屋、日影茶屋。
日影茶屋は久米正雄の『破船』、川上眉山の『ふところ日記』、松岡譲の『憂うつな愛人』などの小説の舞台にもなった文学的にも深くかかわりのあるところでもあります。
共産主義者でアナキストの大杉栄は、妻との結婚生活を保ちつつ、自由恋愛主張のもと東京日日新聞の記者であった神近市子、翻訳家・辻潤の妻・伊藤野枝とも関係を持ち、多角恋愛を巧みに操りながら、本郷の菊富士ホテルに暮らし、当時旅館としても機能していた葉山の日影茶屋を仕事場にしていました。
大正5年(1916年)11月9日、日影茶屋に投宿していた大杉栄(当時31歳)が、嫉妬にかられた神近市子(当時28歳)に刺されて重症を負わせられる事件がありました。それは以後、日影茶屋事件として歴史刻まれることとなる大ニュースとなりました。
神近市子は傷害罪で懲役2年の実刑判決を受け収監されたのち、社会党から衆議院議員となり4回の当選を繰り返し、売春防止法の制定に尽力し、1981年93歳で亡くなりました。
一方、重症を負った大杉栄と多角恋愛を勝ち取った伊藤野枝(当時21歳)はその年に結婚し、5人の子供をもうけましたが、大正12年(1923年)9月1日の関東大震災から間もない16日に、以前から警察にマークされていた大杉栄と伊藤野枝は、大杉の甥・橘宗一とともに憲兵大尉・甘粕正彦に連れ去られ、その日のうちに憲兵構内で扼殺されて亡くなりました。(甘粕事件)。遺体は畳表で巻かれて古井戸に投げ捨てられたそうです。
日影茶屋事件から、たった7年後のことでした。
300年以上の歴史を持つ日影茶屋。
♪ 砂にまみれた夏の日は言葉もいらない 日影茶屋ではお互いに声をひそめてた
その悠久の時間の先っぽに立つ私たちは、その名をサザンオールスターズ、はらぼうの歌う『鎌倉物語』の歌詞の中に見つけることができるし、葉山に出かけずとも関東近郊に展開するパティスリー ラ・マーレ・ド・チャヤや、和・洋菓子舗 日影茶屋ではオリジナルのお菓子を手軽に楽しむことができます。
一番人気の日影大福。
江戸時代、宿屋として知られていた日影茶屋では、遠方からの旅人への労いの気持ちを込めて所有地の米を振舞っていたそうです。
その名残から現在でも度々行われる餅つき。その歴史の続きにこの日影大福があるのです。
御用邸のある「一色」から名づけられた一色餅は、ういろうのような、もはやういろうではないような、とっても上品な口当たりです。
夏季限定のれんこん餅は、店頭に並んだ瞬間から売り切れ必至。電話で取り置き願い措置。
ペタンクは見たままそのままpetanque。リンゴ風味のかわいらしいシュークリームです。
日影茶屋をめぐる物語を思いながら、ひとくちひとくち、おいしくいただきました。
__________________________________________
辻 潤(ツジ ジュン)
明治17年(1884年) - 昭和19年(1944年) 享年60歳
東京市浅草区向柳原町(現台東区浅草橋)出身
日影茶屋事件、大杉栄と最期をともにした伊藤野枝。
その夫であった翻訳家・辻潤。
上野高等女学校の英語教師であった辻潤は、生徒であった伊藤野枝との恋愛問題で同校を退職させられ、以後定職に就くことはありませんでした。
晴れて妻となった伊藤野枝はやがて大杉栄へと出奔。
そんな頃、ダダイズムの運動を知り、自らをダダイストと名乗るようになった辻潤は、白山の『南天堂』に集うようになります。そこにいたのが林芙美子。
辻潤は林芙美子の才能を見出し世に送り出したひとりとして、また林芙美子の敬愛すべき人のひとりとして語られています。
林芙美子(当時21歳)が友谷静江とで『二人』という詩集を出した時の日記には、このように記されています。
『 六月×日
冷たいコーヒーを飲んでいる肩を叩いて、辻さんが鉢巻をゆるめながら、賛辞をあびせてくれた。
「とてもいいものを出しましたね。お続けなさいよ。」 』 (『放浪記』第1部より)
また処女詩集『蒼馬を見たり』の後記には、辻潤その人の名前が出てきます。
『 序を書いて下さいました、石川三四郎氏、辻潤氏は、私の最も尊敬する方でございます。
詩壇の誰もに私は相手にされなかつたのに、かくまで親切なる序文を戴いた事は、私の拾年あまりの
詩の苦行も、無駄ではなかつたと思つております。 昭和四年・五月・林芙美子 』
伊藤野枝との恋愛沙汰の後から定職を持たなかった辻潤は、40代後半あたりから精神病院への入院や虚無僧姿での徘徊などの異常な行動で警察による保護の繰り返しの日々を送ります。
やがて情緒を取り戻し東京都淀橋区上落合のアパートの一室に落着きましたが、室内で死亡しているのを発見されました。死因は餓死でした。
日影茶屋は久米正雄の『破船』、川上眉山の『ふところ日記』、松岡譲の『憂うつな愛人』などの小説の舞台にもなった文学的にも深くかかわりのあるところでもあります。
共産主義者でアナキストの大杉栄は、妻との結婚生活を保ちつつ、自由恋愛主張のもと東京日日新聞の記者であった神近市子、翻訳家・辻潤の妻・伊藤野枝とも関係を持ち、多角恋愛を巧みに操りながら、本郷の菊富士ホテルに暮らし、当時旅館としても機能していた葉山の日影茶屋を仕事場にしていました。
大正5年(1916年)11月9日、日影茶屋に投宿していた大杉栄(当時31歳)が、嫉妬にかられた神近市子(当時28歳)に刺されて重症を負わせられる事件がありました。それは以後、日影茶屋事件として歴史刻まれることとなる大ニュースとなりました。
神近市子は傷害罪で懲役2年の実刑判決を受け収監されたのち、社会党から衆議院議員となり4回の当選を繰り返し、売春防止法の制定に尽力し、1981年93歳で亡くなりました。
一方、重症を負った大杉栄と多角恋愛を勝ち取った伊藤野枝(当時21歳)はその年に結婚し、5人の子供をもうけましたが、大正12年(1923年)9月1日の関東大震災から間もない16日に、以前から警察にマークされていた大杉栄と伊藤野枝は、大杉の甥・橘宗一とともに憲兵大尉・甘粕正彦に連れ去られ、その日のうちに憲兵構内で扼殺されて亡くなりました。(甘粕事件)。遺体は畳表で巻かれて古井戸に投げ捨てられたそうです。
日影茶屋事件から、たった7年後のことでした。
300年以上の歴史を持つ日影茶屋。
♪ 砂にまみれた夏の日は言葉もいらない 日影茶屋ではお互いに声をひそめてた
その悠久の時間の先っぽに立つ私たちは、その名をサザンオールスターズ、はらぼうの歌う『鎌倉物語』の歌詞の中に見つけることができるし、葉山に出かけずとも関東近郊に展開するパティスリー ラ・マーレ・ド・チャヤや、和・洋菓子舗 日影茶屋ではオリジナルのお菓子を手軽に楽しむことができます。
一番人気の日影大福。
江戸時代、宿屋として知られていた日影茶屋では、遠方からの旅人への労いの気持ちを込めて所有地の米を振舞っていたそうです。
その名残から現在でも度々行われる餅つき。その歴史の続きにこの日影大福があるのです。
御用邸のある「一色」から名づけられた一色餅は、ういろうのような、もはやういろうではないような、とっても上品な口当たりです。
夏季限定のれんこん餅は、店頭に並んだ瞬間から売り切れ必至。電話で取り置き願い措置。
ペタンクは見たままそのままpetanque。リンゴ風味のかわいらしいシュークリームです。
日影茶屋をめぐる物語を思いながら、ひとくちひとくち、おいしくいただきました。
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辻 潤(ツジ ジュン)
明治17年(1884年) - 昭和19年(1944年) 享年60歳
東京市浅草区向柳原町(現台東区浅草橋)出身
日影茶屋事件、大杉栄と最期をともにした伊藤野枝。
その夫であった翻訳家・辻潤。
上野高等女学校の英語教師であった辻潤は、生徒であった伊藤野枝との恋愛問題で同校を退職させられ、以後定職に就くことはありませんでした。
晴れて妻となった伊藤野枝はやがて大杉栄へと出奔。
そんな頃、ダダイズムの運動を知り、自らをダダイストと名乗るようになった辻潤は、白山の『南天堂』に集うようになります。そこにいたのが林芙美子。
辻潤は林芙美子の才能を見出し世に送り出したひとりとして、また林芙美子の敬愛すべき人のひとりとして語られています。
林芙美子(当時21歳)が友谷静江とで『二人』という詩集を出した時の日記には、このように記されています。
『 六月×日
冷たいコーヒーを飲んでいる肩を叩いて、辻さんが鉢巻をゆるめながら、賛辞をあびせてくれた。
「とてもいいものを出しましたね。お続けなさいよ。」 』 (『放浪記』第1部より)
また処女詩集『蒼馬を見たり』の後記には、辻潤その人の名前が出てきます。
『 序を書いて下さいました、石川三四郎氏、辻潤氏は、私の最も尊敬する方でございます。
詩壇の誰もに私は相手にされなかつたのに、かくまで親切なる序文を戴いた事は、私の拾年あまりの
詩の苦行も、無駄ではなかつたと思つております。 昭和四年・五月・林芙美子 』
伊藤野枝との恋愛沙汰の後から定職を持たなかった辻潤は、40代後半あたりから精神病院への入院や虚無僧姿での徘徊などの異常な行動で警察による保護の繰り返しの日々を送ります。
やがて情緒を取り戻し東京都淀橋区上落合のアパートの一室に落着きましたが、室内で死亡しているのを発見されました。死因は餓死でした。
by natsu-daisuki
| 2009-06-24 00:45
| ▪️林芙美子、リアル放浪記