2009年 04月 12日
【リアル・放浪記、林芙美子になりきって】 本郷文学散歩 / 森川町の下宿屋、本郷館 |
小脇に抱えた明治・大正時代の古地図(大判)。
立ち止まって開いては、今歩いている場所がどのあたりなのかを確認する。
現在の本郷6丁目付近(本郷3丁目駅から上、言問通りまでの一帯)を、昭和40年の合併による町名変更時まで森川町といいました。
森川という名は、江戸時代頃の中仙道宿場、森川宿が由来。このあたりは馬建場で人馬の休憩所だったそうです。
本郷6丁目は本郷地区の最北です。
そこに建つのが、下宿屋本郷館。
明治38年(1905年)に建築された木造3階建ての下宿屋で、部屋数は70室前後、やはりここも東京大学同様、関東大震災や東京大空襲の被害から免れた、貴重すぎる建造物。
林芙美子が生まれたのが、明治36年(1903年)。その2年後にできた本郷館。
100年以上の歴史が刻まれています。
驚くのが、いまだ住民が住まっているということ。老朽化による取り壊し、立ち退き等さまざまな課題が持ち上がっているようですが、難しい問題です。
それにしても現代の町並の中に忽然と姿をあらわす本郷館の迫力は、ほかにたとえようがないほど。
大正15年(1926年)本郷追分町(現在の向丘あたり)で、平林たい子(作家)と同居をしていた林芙美子。
多くの学生たちで賑わいを見せていた本郷館を、日常の風景の中に、やはり見ていたに違いない。
__________________________________________
平林 たい子(ヒラバヤシ タイコ)
明治38年(1905年) - 昭和47年(1972年) 享年67歳
長野県諏訪市出身
上諏訪町立諏訪高等女学校(現在の長野県諏訪二葉高等学校)卒業
12歳の頃すでに作家になる決心をする。
上京後すぐ、新劇俳優田辺若男(林芙美子の一番最初の結婚相手)の紹介でアナーキスト詩人たちを知る。そこにいたのか林芙美子。
林芙美子とは苦しい時代、一緒に女給をしたり同居をしたりした仲。林芙美子の『放浪記』には、しばしば彼女の名前が登場する。
<代表作>
私は生きる
かういふ女
評伝・林芙美子
自身64歳の時に発表した『評伝・林芙美子』。
「晩年をかたる適任者ではないが、若い頃のことは、よく知っている方であろう」として、林芙美子とのかかわりが生き生きと記されている。
立ち止まって開いては、今歩いている場所がどのあたりなのかを確認する。
現在の本郷6丁目付近(本郷3丁目駅から上、言問通りまでの一帯)を、昭和40年の合併による町名変更時まで森川町といいました。
森川という名は、江戸時代頃の中仙道宿場、森川宿が由来。このあたりは馬建場で人馬の休憩所だったそうです。
本郷6丁目は本郷地区の最北です。
そこに建つのが、下宿屋本郷館。
明治38年(1905年)に建築された木造3階建ての下宿屋で、部屋数は70室前後、やはりここも東京大学同様、関東大震災や東京大空襲の被害から免れた、貴重すぎる建造物。
林芙美子が生まれたのが、明治36年(1903年)。その2年後にできた本郷館。
100年以上の歴史が刻まれています。
驚くのが、いまだ住民が住まっているということ。老朽化による取り壊し、立ち退き等さまざまな課題が持ち上がっているようですが、難しい問題です。
それにしても現代の町並の中に忽然と姿をあらわす本郷館の迫力は、ほかにたとえようがないほど。
大正15年(1926年)本郷追分町(現在の向丘あたり)で、平林たい子(作家)と同居をしていた林芙美子。
多くの学生たちで賑わいを見せていた本郷館を、日常の風景の中に、やはり見ていたに違いない。
__________________________________________
平林 たい子(ヒラバヤシ タイコ)
明治38年(1905年) - 昭和47年(1972年) 享年67歳
長野県諏訪市出身
上諏訪町立諏訪高等女学校(現在の長野県諏訪二葉高等学校)卒業
12歳の頃すでに作家になる決心をする。
上京後すぐ、新劇俳優田辺若男(林芙美子の一番最初の結婚相手)の紹介でアナーキスト詩人たちを知る。そこにいたのか林芙美子。
林芙美子とは苦しい時代、一緒に女給をしたり同居をしたりした仲。林芙美子の『放浪記』には、しばしば彼女の名前が登場する。
<代表作>
私は生きる
かういふ女
評伝・林芙美子
自身64歳の時に発表した『評伝・林芙美子』。
「晩年をかたる適任者ではないが、若い頃のことは、よく知っている方であろう」として、林芙美子とのかかわりが生き生きと記されている。
by natsu-daisuki
| 2009-04-12 00:32
| ▪️林芙美子、リアル放浪記